蒲田 歴史
インターネットの記事やテレビに新聞などが取り上げられたことで、ラブホテルの簡易版というイメージの強かったレンタルルームは多様な用途で使用されるようになりました。
そのため利用する年代も幅広いものになってきています。
特に都内でレンタルルームが集中している街として有名なのは新橋ですが、その他にも東京の南部に位置する蒲田は都内有数の繁華街であり、多数のレンタルルームが存在しています。
今回は、そんな知られざる蒲田の古代から現在にかけての歴史について解説していきます。
古代から大正にかけての蒲田
蒲田周辺は一駅先の大森に歴史の教科書にも載っている「大森貝塚」があるなど、2000年以上昔の縄文時代後期から周辺に人々が住んでいたことが確認されています。
蒲田にある薭田神社(ひえたじんじゃ)は709年の奈良時代からその場所にあり、かつては「蒲田神社」とよばれやがて薭田という名前に変わっていったとされています。
それが表しているように蒲田は非常に古い地名であり、はるか昔からその名前は変わっておらず、少なくとも1300年も前の奈良時代の辺りからその名が使用されていたことが分かっています。
また、江戸時代になると蒲田は「梅の木村」と呼ばれ、かの有名な歌川広重が蒲田の梅を題材に作品を書くほどの梅の名所として知られており、現在でも蒲田の区の花は梅となっています。
明治時代に入ると江戸時代の区分けや制度の改定が行われるようになり、1889年に町村制が施行されたことを期に、周囲の複数の村が統合され「蒲田村」となりました。
1922年の大正11年には町制が施行されたことにより蒲田村から「蒲田町」へと移行しましたが、この時点ではまだ蒲田も含まれる大田区は誕生しておらず、23区南部地域は「荏原群」とされていました。
昭和から現在にかけての蒲田
昭和になると、戦前の蒲田は東京の玄関口として知られるようになり、全国各地から多数の移住者がやってきたため自然増加数を上回るほどの人口増加が起こりました。
さらに労働者の集まる西地区ではなく、まだ田園地帯が広がっていた東地区では松竹が映画の撮影所を設けるようになり映画産業でも知られるようになったため、「昭和の楽園」と評する声もあるほど東京でも随一の発展を遂げていました。
1932年の昭和7年には荏原群全域が東京市に合併となり、蒲田周辺は「蒲田区」となっています。
しかし、そんな蒲田も太平洋戦争での空襲による被害は避けられず、1945年の戦争末期に行われた空襲で完全に焦土と化し、かつての繁栄は一旦失われてしまいました。
一旦は焼け野原となって全てが失われてしまった蒲田ですが、その後の戦後復興の波に乗り、蒲田の街も少しずつ復活していき、1947年には北部に存在した大森区と合併したことで現在の大田区が誕生しています。
その後は現在に至る繁華街としての発展を遂げ、さらに満州や中国にいた残留日本人や残留孤児の人々が帰国して蒲田に流入するようになったことから、餃子を始め様々な中華料理の発信地としても知られるようになりました。
そして現在は駅周辺の再開発も進められており、今後さらなる発展が期待されています。
まとめ
今回は蒲田の歴史ついて解説しました。
都内でも有数の治安の悪さで民度が低いとバラエティ番組やインターネットでは揶揄されることが多い蒲田ですが、これまで積み重ねてきた長きに渡る歴史がしっかりと詰まっている場所でもあります。
現在は再開発も進むなど新たな街へと生まれ変わりつつあり、付近にはたくさんのレンタルルームがあるので旅行客の方や終電を気にせず夜中も楽しみたいという方は安心して街に繰り出すことができるでしょう。
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店舗が位置する蒲田は都内有数の繁華街であり、また羽田空港へも近いなど交通の要衝としてアクセスが抜群であるため、旅行に来たお客様がホテル代わりの観光拠点として活用することも可能です。
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